地層のように眠れ

かつて父の母は、息子が遠くから連れてきた若い女に、前夜から煮込んだ料理を並べて、もっと食べろ!たくさん食べろ!、などとすすめたのだろうか。お正月にだけ食べられる祖母のりんご入りのきんとんは、幼い頃の特別なごちそうだった。
母は、同じようにしてくれた、祖母が父と母に並べて布団を敷いてくれたように。「まるでもう夫婦みたいに扱ってもらえたのが嬉しくてね、」と恥ずかしそうに笑っていた。
祖父と祖母が毎晩眠っていた座敷の隅には神棚がある。夏には祖父が蚊帳をつるすのだ。小さい頃、両親の帰りが遅いと祖父と祖母の間に潜ってはじっと天井を眺めていた、電球も、あの木目も。
同じ部屋で翌日の演奏を控えて、私は肩と腰を揉んでもらう。とても入念に。大切な弦楽器を磨くように。
病んでいた私は、家族の誰よりも早く死にたかった。道連れにしてでも迷惑にしかならない病人は殺すし殺されたかった。だが、私は生きている。誰も殺してはいない。ただ自然にぽかりと祖母がいなくなっただけだ。
世代はかわっていくのだ。地層のように、骨は埋もれてゆくのだ。死者たちは。順番は、自然のとおりが良い。
私たちも良い夫婦になれそうかな、そんな微笑ましい会話をして、希望も未来も笑顔も、たくさんを持っている若者ということ。
ベビーベッドから寝室へ、寝室から子ども部屋へ。そうしてだんだんに、部屋を移ってゆくだけだ。生は死に向かって、ゆっくりと行進を続けている。
ただひとり、のこった祖母に会いに行く。りんごを甘く煮ていこうかと思う。
自然にかなった順番とは、生や死の営みだけではなく、意識せずつつみこまれてきた愛の連なりでもあろう。
私は、祖母の煮たりんごが好きだ。好きだった。